夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

スポンサーサイト

Posted by 瀬那みき on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

インコ

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
薬師丸ひろ子です。

というモノマネが上手な人がいまして、それを聞くたびに大うけをしていた懐かしい時代をモノマネ芸を見ると思い出します。

さて、オウムの事件が高橋容疑者の逮捕を機に再び話題となっております。
事件当時、私はどうしても霞が関へ出向かなければなりませんでした。
予め事件のことは知っておりましたが、丸ノ内線が止まっていることは知らず、仕方なくタクシーで行った記憶があります。

それにしてもこの事件があって世間には、やっぱり宗教って危険だよね、信仰は大切なのかもしれないけれど行きすぎはよくないよね、というような漠然とした不安感をもちつつ宗教をみている人が沢山いたように思いました。
やはり「宗教はアヘン」なのでしょうか。

確かに、宗教は支配者の道具として使われることが歴史的にもありました。
すなわち、支配者の命令に盲目的に従うことが神に従順であるという教えを広めさせ、それによって無理難題を「ご無理ごもっとも」と聞けるような精神に導き、同時に現世の苦しみとか不平不満を彼岸の天国に移すことによって、泣き寝入り精神に徹底してしまう考え方です。

このような悪意に積極的に宗教家が協力しないとしても、この危険に晒されていることは自覚し、戒めあわなければなりません。
と同時に、これは宗教の悪用であり、誤解であって、ほんとうの意味での宗教はそのような泣き寝入り主義、天国一点張りの教えを説くものではありません。

また、ある説は、神が人間を造ったのではなく、人間が神を造った、即ち人間の心理が神という幻影を投影し、それを実体のように信じることを宗教とし、アヘン的幻影と指摘しました。
しかし神が人の心の中にさし込み、それが人間の意識の中に経験されるのは、その受け入れる側の条件に関係してきます。
苦しいときの神頼みというように、苦しい時に人はいっそう神を発見しますが、それは発見であって生み出したのではないのです。

では宗教とはなんでしょうか。
宗教はその中に道徳律をもっていて、法や道徳と類似していることは周知の事実です。
そのため、世間往々宗教について正解せず、宗教の本質は、若干の律法を遵守し、聖人君子となることと考えている人は、決して少なくないのです。

宗教は、その中に律法を包容しますが、それは法や道徳におけるのとは全く異なった意味であることは、信仰の何たるかを会得した人ならば理解できることなのです。

まずその律法は法律の場合のように平均人が企及できるような程度のものではなく、その完全な実現は、不可能なものです(実現不可能であっても、実現しなければならないことは求められるのです)。
この世の法律は、通常人が実現できるものでなければならず、もし実現不可能ならば、それは法として適当でないと言わなければなりません。
なぜならば、法律は、社会の秩序を維持するに足るだけの外部的行為の準則をもって満足しているからです。
ところが、宗教上の律法は、行為の動機に立ち入って、もっとも純潔なことを求めるのです。その求めるところは、社会秩序の維持ではなく、神の目より見て正しいこと、なのです。
そして、人が良心が強いほど、道徳的に卓越していればそれだけ、このような律法を実行しがたい悩みが増していくものと覚悟しなければならないのです。

この律法の苦しみから解脱させるのはキリスト教徒は、福音の信仰であるとします。

信仰により、人は律法を自己自らの力によって実現しようと焦慮する必要なく、このような苦悩から解放され、法と道徳の世界において奪われた自由を回復するのです。

このように宗教は法律と異なり、その掲げる律法の遵守を仮借なく追及しないで、罪を自覚させる標準をたて只管信仰を要求し、信仰の結果自然に律法の成就を達成しようとするのであって、この点において宗教上の律法は、法律とは全く異なった方面から人間に対するのです。
社会学的にみれば、法律も宗教上の律法も全く同じなのかもしれませんが、上述の意味で、2つの律法の間には、何の交渉もないのです。


スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://mikitinaiustitia.blog.fc2.com/tb.php/9-699bc121
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。