夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

スポンサーサイト

Posted by 瀬那みき on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

よいお年を

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

今年最後の投稿となりました。

このブログは、初めて製作したWEBサイトに付随させていたものでしたが、いつの間にかブログの更新にのみ取り組むようになってしまいました。
個人的な趣味の領域に止まるはずが、話は法律、政治、宗教に及び、こうしたことに全く興味を持ち得ない方には退屈な話題ばかりであったのかもしれません。
もっと面白い話や、写真や動画なども沢山アップして、WEBサイトもアップグレードできればよかったのかもしれません。

様々なご理由から鬱病になり、悩み苦しんでいる方に、癒しとなるようなお話なども沢山提供できればよかったのかもしれません。

インターネット空間は便利で、普段の生活では接点を持ち得ないような人と交流ができる反面、危険性も無視できない面があります。
できるだけ自由に末長く皆さまとお付き合いさせていただくためにも、公開する情報は制限させていただいております。
どうか、ご理解くださいますようお願い申し上げます。

さて、靖国神社参拝問題が年末に再び登場致しました。
ここでは靖国参拝に対する海外の反応を分析することは他にお任せします。

この問題に関しては既に本ブログにおいて、明治以来の法制に遡って「神社は宗教に非ず」という見解から考察致しました。

今回の参拝について国内においては、単純に先祖代々の死者に敬意を払っただけだとか、あくまで私的参拝をしただけだとか、戦没者の眠る神社へ行くことをどこまで責められる必要があるのだろうか等、意見があります。

そもそも神社の前に敬礼をすることが宗教的礼拝なのかどうか。
それは例えば祖先の墳墓の前に頭を下げるように、世間一般の敬意を払うことに過ぎないのかは判然としないものがあります。
実際の場合において、この限界は非常に曖昧であり、事理を弁識できる大人でも容易ではありません。

しかし、宗教行為であろうとなかろうと、他人に不快を与えるような言動は慎まなければなりません。

神社は過去において国家によって与えられた特殊的な地位によって、自らの精神的生命を危うくさせてしまいました。
我が国においては国教主義が表面上は採用されていないのにもかかわらず、内実は神社が国教であったのです。

我が国においては多くの宗教が割拠しており、一国家一宗教のような状態は、現在の文明国においては存在し得ない理想です。

では国家はこのような状態において、どのように処さなければならないでしょうか。

政府は、その宗教がその自らの力を自由に発展し得るような地位に置き、優勝劣敗に任せなければならないのであって、当局者の信じる特定の宗教を庇護するようなことは、国家の任務を踰越するものと言わなければなりません。

政府は宗教に関し、平等を尊重しなければなりません。
政府がいかなる宗教的色彩をも帯びないような場合においても、その宗教に対し平等の取扱が為されなければなりません。

国家がいかなる宗教をも偏重することが出来ないことは、国家が現世的なものであって、このような選択の能力がないことに因るのです。

国家は第一に、総ての宗教について原則として布教、宣伝、信仰、礼拝を自由とし、国教を設けてはなりません。

第二に、総ての宗教はそれが国家の警察的法規に触れない限りは、一様に保護しなければなりません。

宗教の保護は全く消極的でなければならず、積極的保護は仮に平等に行われる場合においても、宗教の自主独立を害し、その精神的力を減殺することになるのです。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://mikitinaiustitia.blog.fc2.com/tb.php/74-7d71a7bd
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。