夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

スポンサーサイト

Posted by 瀬那みき on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平和について

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

人間は一体何のために生きているのか。
如何なる理想を求めて人間は生活しているのか。
理想というものがあるのか、ないのか。
その理想は何であるかという問題は、一個人に限らず、国内国外同じような問題です。
このような根本問題は、哲学の問題であり、倫理学の問題であり、宗教の問題になってくるのです。

世界の平和を実現するために果たして正義だけでいいのか。
世の中には正義が行われなければならない。
ジャスティスがなければ人間は生きている甲斐がない。
正義というものは個人間ばかりでなく、国際的、国家間にも支配しなければならない、普遍的の原理です。
しかしそればかりでは足りない。
正義というのは冷たいものだ。
ここには愛というものが必要であり、これも国際間において、国内において、同じことです。
このような人間を教育しない限り、人間を進化させない限りは世界平和は容易に来ないのです。これは何の使命かというと、教育、宗教に俟たなければならないのです。

ところが一般には経済問題だけが登場してくるのです。
このような立場からいうと世界経済機構を確立しなければ世界の平和は来ないのです。
そこには資源の分配の問題、移民の問題、そういういろいろな問題を解決しなければいくら国際的な組織を作っても、いくらその組織に拘束力を持たせても、世界の平和の基礎というものは薄弱なものになってしまいます。そしてまた戦争が起こるという考え方です。
戦争は要するに各国の資本主義的国家相互の間の競争、市場争奪戦が原因になるのです。
この考え方は非常に一方的です。
戦争はいろいろな原因から生ずるもので、経済的なファクターは重要ですが、戦争はそんな原因ばかりから起こるものではありません。
ヒトラー、ムッソリーニ、日本の軍閥に対して連合国は、経済的打算からのみ戦争をしたとは思われません。そこにはやはり倫理的要素が多く存在するのです。

世界恒久平和の問題は、あらゆる方面から観察しなければなりません。
ただ感情的、ユートピア的平和主義であってはなりません。
私たちは空想的な平和主義というもののみに頼ることはできません。
平和主義の基礎としてもちろん、経済的、社会学的ファクターを大いに考慮に入れなければなりません。
しかし、一層重要なのは精神的ファクターです。
世界経済において本当の正義を実現するためには、私たちの精神生活が今まで通りであってはならないということになるのです。
だから経済そのものの中に精神的、倫理的原理が含まれてくるのです。
それに触れないでは経済そのものもよくならないということです。

世界平和の問題についていろいろな説がありました。
たとえばドイツならドイツの征服の下における世界平和を彼らは考えていました。
マルクス主義ならマルクス主義的の共産主義的の平和理論がもしあるとすれば、日本の大東亜共栄圏や八紘為宇の思想のようなものもそうです。
それは各民族、各個人というものを全く機械のようなものにして、その自由を奪い、人格を無視して出来上がったところの平和です。
それは本当の平和ではありません。

このような平和論ではなくても、バランス・オブ・パワーという議論があります。
これはすべて実力というものが平和の基礎になって、この実力の間の均衡を保つこと自身において、そこに平和の基礎を求めようとするものです。
それが本当の解決の途でないということを、私たちはだんだん感じるようになってきました。
私たちはこの問題をもっと掘り下げて、精神的の方面まで考慮に入れない限り正当な結論に達しないと思うのです。

例えばキリスト教が2000年前から世界人類平等主義を説いています。
チャリティーというものを説いています。
しかし戦争はまだ絶えないではないか、戦争はますます悲惨になりつつあるではないか、だから宗教は無力だ、と言ったりします。
キリスト教などというものは役に立たない。
このような精神主義の代わりにまずパンを与えよ、パンが唯一の解決策だ、このように言ったりします。
しかし、もしキリスト教が世の中に存在していなかったならばどういうふうになったかということを考えてみなければなりません。
奴隷制度も廃止されなければ、男女同権も存在しないのです。
基本的人権も憲法において規定されるようになっていなかったでしょう。
現在私たちが当然至極だと思っているあらゆる精神的持物の大部分はキリスト教から来ている、ということをはっきり認識しなければならないのです。
人格の観念にしろ、人間の平等の観念にしろ、本当の意味の民主主義の発達にしろ、このような方面に貢献しているということを否定するわけにはいかないのです。
とくに平和主義の理念に対して大いなる貢献をしているのです。
よくよくの場合でなければ戦争をやっちゃいけないのです。
侵略戦争を私たちは認めることはできなのです。

今日戦争は自然科学、技術の発達の結果、非常に熾烈になってきました。その影響が残酷なものであるということは事実です。
しかし、その結果をみて世界人類がだんだん好戦的になってしまったというふうに考えるならばこれは間違いです。
世界の世論は決して悪くなってはいません。
正しい世論がだんだん統合する可能性が増えてきています。
戦争の結果が残酷なものであり、影響するところが非常に多いことは、科学技術の進歩発達の結果であって、世界経済というものの連帯性がますます進化した結果です。
世界人類の中には、正しい世論が非常に容易に成立するようになり、またその世論を貫こうとする力がだんだん増加してきているのです。

主権というものは絶対のものではなくて、個人の自由が制限されているように、国家の持っている自由も国際社会において大きな制限を受けるという建前に立たなければならないのです。

法というものは国家が決めるものではありません。
国家間で相談して決めるものでもありません。
国家の上に自然法というものがあるのです。
個人の意思にもかかわらず国家の意思にもかかわらない天地の条理というものがあるのです。
宗教的にいうならば神が定めた万古不易の法というものがあるのです。
その法というものは倫理的の法、道徳的の法です。
このような根本理論をとらない限りは世界の平和、人類の福祉というものは実現できません。

私共は国際問題については平和主義でやっていく、しかし国内問題については闘争主義でやっていくというような矛盾に陥ってはなりません。
そういう人達は、世界平和の問題になってくると熱意を表し、ひとかどの民主主義者のように振る舞うのです。
ところが国内政治の問題はどうかというと、対外的関係において主張した平和主義は無雑作に捨ててしまって、憎悪を挑発し利益をめぐる熾烈な闘争を刺激するのです。
これは矛盾ではありませんか。
外に向かっては神様みたいにならなければならない。
これは内においては人間は獣でいいのだという考え方です。
外に向かっては握手していながら、内に向かっては人を殴っている。
このような人間があり得るでしょうか。
対外、対内両方とも、私たちは同じでなければならないのです。
私たちは同じ人間なのです。
家族の中においても、民族の中においても、世界人類社会においても同じ人間なのです。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://mikitinaiustitia.blog.fc2.com/tb.php/67-57a8814a
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。