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猛暑再び

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こんばんは。
瀬那みきです。

最近の宮崎駿監督の映画が気になっていました。
丁度映画館へ行った人がいたので状況を聞き、本も購入したということでお借りすることができそうなので、映画館へは行かなくて済みそうです。

さて猛暑再び到来ということですが、何処の誰それが靖国神社に参拝する、しないが取り沙汰される時期でもあります。

この問題についての根本に対する疑問として、我が国の宗教に対する立場を考えてみる必要がありそうです。

明治以来の法制についてみてみますと、従来政府の解釈では「神社は宗教に非ず」という見解を固辞していました。
当局の見解に従えば、神社は国家の祭祀であって、日本国民たるものは一様に崇敬しなければならない営造物であるとしたのです。
有形の建物はどの宗教についても通常存在するものですので、神社が営造物であるとしても、それが宗教であるか、そうでないかの問題を決するものにはならないのです。

更に当局は、神社が宗教行為をすることを否定しないのです。
神社の宗教行為は神社の主要な作用ではなくて、単なる従属的意義をもつ事項に過ぎないと弁明されるのです。

例えば、営業の免許を要する事業を営もうとする会社があるとします。しかしこの事業の免許を得ることの煩わしさを免れるために、免許を要しない他の目的のために営業をはじめ、又は会社を設立し、免許を要する事業を従たる目的として営もうとすることは到底不可能なことです。
これは免許制度をくぐることであるばかりでなく、正当に免許を受けて営業をする者と比較して不公正であり、その者の利益を害することになるのです。
このことは神社問題についても同様で、神社の宗教行為が従属的だからという理由で認めておくのは不公正だということになります。

では政府はこのような事実の真相を無視してなぜ従来一貫して神社非宗教主義を固辞していたのでしょうか。

これは憲法の規定が存在(明治憲法28条の信教の自由の規定)していたためです。
国家は近世諸国家の例にならって、信仰自由の原則を承認せざるを得ません。
もしこの原則を認めないとすれば、各文明国に、日本をなおキリスト教迫害時代の状態にあるものと思われかねず、信仰自由に関する憲法の原則は、我が国の文明国としての体面上からいっても必要と認められたのです。

しかし国家は歴史的の意味から日本国民全体に神社を礼拝させなければならないことを欲したのです。
神社礼拝は我が国の国是と最も密接に結びついているものと認められているのです。
国家は努めて敬神思想の滋養発達を計り、神社の併合、その財産上の保護監督、専門の機関による神社の由緒の調査、神職の養成、これによる我が国の古典研究に対する熱を維持しようとすることを計るなど、国家は神社を国民生活に結び付けようと腐心していたのです。

国家は信仰自由の原則を設定しながら、神社を国民全体として崇拝させようとしていたのです。
しかし、これを法律的に強制することは不可能です。
これは明らかに前述の憲法の規定に違反することになるためです。
この2つの要求は明らかに矛盾しているものであって、これを表面にあらわれる法律制度で達成することは不可能なことなのです。

この矛盾を切り抜けるために、従来の政府当局は合法的であるように見えて、その実、ある程度信仰の自由を圧迫する方法を選んだのです。

それは制度上のみにおいて神社を宗教以外に超然とさせる途なのです。
神社は、仏教、キリスト教、天理教のような他の宗教と併存して同等な地位において互いにその分野を争うことなく、特殊の地位に安居していることができるのです。

神社が宗教ではないと定まれば、一方他の宗教を信じる者も神社を崇敬するということは、その者の信仰と矛盾することなくなされ得るのです。
このために国家は法律上とは言わなくても少なくとも事実上は、他の宗教に属する者に神社を崇拝すべきことを強制することができるのです。

神社が宗教ではないとすれば、国家は他の宗教と異なった特典を神社に対してのみ許与できることは明らかで、全然超自然的実在を信じない者まで、事実において神社礼拝を強制される羽目に陥るのです。
これらの人々は、これと矛盾する信仰をもっている訳ではないので、他人と共に神社礼拝に参列する場合において、自己の無神論的人生観に基づいて礼拝を拒否することをせず、他人と調子を合せることになるでしょうが、このようなことはその者の良心に忠実であることにはならないのです。

我が国の社会生活国家生活において、信仰の自由は未だ完全に認められていないのです。
この点の改善は国民一般の精神生活に対する理解の増進に待つほかないのですが、法制上において神社礼拝が一般人に強制されているわけではありませんが、公の関係において事実上このような礼拝を余儀なくされるような場合があり得るということなのです。
個人の信仰を尊重しないことが国民の公の生活において行われるとするならば、速やかに改善されなければならない事柄です。

キリスト教の真理を承認しながらも自己の公の職務上神社を礼拝しなければならない場合もあり不都合を来すことをおそれ、キリスト教徒と為らないものがあることを聞きます。
この場合、国民は勿論積極的に一定の宗教を信じることを禁止され、信じれば迫害を受けるわけではなく、この点において今日の事情は昔とは違うのです。
しかし、ある者がその宗教に忠実になろうとするならば、一定の地位、官職と両立しなくなること、もしその地位官職に止まろうとするならば、その信仰を賭さなければならない状態に置かれているのです。
信仰の自由が認められているとは言うものの、一定の信仰を有する時には、即ち良心に忠実に振舞うときには、不利益を受けなければならないのです。
これでは信仰の自由は完全に与えられず、消極的に間接に制限されていることになるのです。

当局が小策を弄して神社に宗教以外に超然とした地位を与えたことは、現在においてなお残すところであって、これは国家的立場からも、神社そのものの生命のためにも寒心すべき結果を生ずると考えざるを得ません。

国家的立場においてというのは、このようなことを行っている以上、外国人が我が国において憲法の明文(憲法20条1項前段)があるにもかかわらず、信仰の自由が未だ認められていないという非難をなす者に対して、何らの弁明もできないのです。

神社そのものの生命のためにもならないとは、神社の精神的中心を失わせ、これを正体の知れない極めて形式的な、神すらもその崇拝の対象ではない一種の設備に堕してしまうことになるのです。

神社の為にも、単に表面的形式的崇敬者の数多いことよりも、むしろ少数ながら、その質において勝る情熱的帰依者が存在することの方が望ましいのです。

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