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はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

今日はいくらか涼しい

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

またしばらく更新ができなくなりそうなので、できる間に更新しちゃいますね。

さて、最近の憲法改正論議に付随してある憲法に対する否定的な態度は、占領政策についての一種の疑惑と関係しているようにみえます。

共産主義者の解放、農地改革、労働運動の保護助長、財閥の解体、警察力の地方分散等、すべての占領政策は日本を寸断し、再起できないようにすることに向けられていました。しかし、日本の弱体化の意図は、往年の軍国主義、日本の軍閥に向けられており、日本国民に向けられておらず、平和日本の再興を否定するものでなかったと言えないでしょうか。

私たちは、敗戦国としてドイツや朝鮮のように二分されたり、国の全部または一部が鉄のカーテンの後方に編入されたりしなかったことを好運としなければならないのです。
のみならず、占領の結果としてとにかく国内の秩序が保たれ、その間に今日まで残っており、または将来まで長く残さなければならないところの、敗戦がなければ、近い将来に独力で実現できそうにない、意義のある多くの改革が成就されたことに思いをいたさなければならないのです。
そして、憲法の制定はその中で最も重大な改革であることは、論を俟たないのです。

一つの国家が何年にもわたって外国の軍隊の支配下にあるということそれ自体が、摩擦や不都合を伴わないことはあり得ません。占領という事実は国家的独立の立場からすれば望ましくなく、さらに恥辱とも考えられる現象でありますが、「歴史の狡智」はこのような禍を転じて福とした意味があったのです。

占領中、国の秩序がとにかく維持され、暴力の支配から保護され、国民は飢餓に陥る悲惨から免れたことは言うまでもありません。
現在私たちが享有し、また今後も引き続いて維持することについて何人も異議のないような諸改革、例えば民主主義の基本理念と、それから発生するところの諸原則、諸制度、ことに主権在民、男女同権、とくに婦人参政権、民法上の「家」や華族制度の廃止、信仰の自由、政教の完全な分離、労働権の保障、議院内閣制の確立、上院の民主化、司法の完全な独立等、いずれも敗戦とか占領とかがなかったとすれば、見通しのできる将来において実現できたとは思われないものばかりです。

このことは戦前において貴族院改革の必要が長い間一部の識者から叫ばれ、その研究がなされてきたのにかかわらず、それが一歩も前進しなかった一事から考えてみても極めて明瞭なのです。

このような改革は、その実質において革命といってもよい性質のものです。
国民がそれを自主的に行おうとしたならば、流血の惨事も避けることができなかったでしょう。それは歴史の不思議なめぐり合わせから、敗戦と占領によって平和的に実現でき、細目の点における矛盾、欠陥、病弊は別として、国民は大局において諸改革の結果を現在も享受しているのです。

占領中に制限されていた主権のもとで行われた諸改革は強制によったものだから全部無効だとするような常識をこえる議論をする者は論外として、占領の意義を十分理解しない多くの者は、占領政策の矛盾や欠陥を指摘するに急なあまり、占領がもたらした諸改革の意義自体を認識しないか、或いはそれを認識していても、恰も自力でもってまたは自然の成り行きの結果として獲得したかのような錯覚に陥るかのどちらかの誤りに陥っているのです。

憲法は以前にも述べたように明治憲法とはちがって、その内容の中に政治哲学的、法哲学的思想を盛っているのです。
このことは憲法の指導理念を宣明している前文において極めて明瞭にあらわれています。憲法が制定された当時の事情から考えるならば、憲法は何より先にその政治哲学・法哲学上の立場を明らかにする必要があったわけです。
その一は、我が国が長年悩まされてきた軍国主義、極端な国家主義の清算です。

しかし、これらの主義を清算してこれに代わるべき立場がなければ、根本的にこれらを清算できるものではありません。そこで極端な国家主義に代わるものが民主主義、軍国主義に代わるべきものが平和主義でなければならないのです。
これらの主義によってのみ軍国主義と極端な国家主義とは始めて完全に払拭することができるのです。

極端な国家主義対民主主義と軍国主義対平和主義は相互に調和和解を許さないものです。そのいずれかが真または正、いすれかが偽または不正であり、第三の立場は許さないのです。その間には何らの妥協も不可能なのです。
もし私たちが真の民主主義者であり、平和主義者であるならば、それに対立する立場である極端な国家主義と軍国主義とを徹底的に排除する熱意に燃えていなければならないのです。
それについては、私たちが過去に犯したところの過誤に対する反省と悔恨の気持が要求されるのです。

憲法の前文にはこの気持がはっきりと現れています。

私たちは、論者の気持の中に敗戦と占領の結果、止むを得ず民主主義と平和主義に帰依したが、主権を回復し、独立した以上は、それを弊履のように捨て去ろうというような気持があるとは決して思いません。

民主主義といっても各民族、各国家の事情によって異なり、各様の民主主義があるのだから、日本において行われるのは日本的民主主義でなければならない、という主張があります。
この主張には「日本的なもの」という点において旧制度に郷愁をもつ者にとっては魅力があります。
しかし、「日本的民主主義」という概念には矛盾があるか、少なくとも不正確さが付着しているのです。

もしリンカーンの「国民の」「国民による」「国民のための」政治を民主主義というならば、それは普遍的な原理でなければならないのです。
イギリスであろうとフランス、アメリカであろうと異なるわけではないのです。
もし日本において民主主義が採用されるとすれば、まずこれらの普遍的な原理が認められなければならないのです。

憲法の改正を主張論議するにしても、旧制度を頭から是認する非合理的な復古主義に由来する国民感情に支配されてはならないのです。

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