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Posted by 瀬那みき on

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アジサイ

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

梅雨入りしたのか、実はまだなのかはっきりしない天候が続いておりますが、アジサイは雨を待っているのでしょうか、目には映っても観ていない状況は相変わらずです。
読者欄などに投稿されている方の観察眼に今のところは頼るしかありません。

さて、今日も憲法改正について、ざっとではありますが引き続き述べていくことにします。
憲法は前回にも述べたように、その内容の中に法哲学的思想を盛っています。
このことは憲法の指導理念を宣明している前文において極めて明瞭にあらわれています。

本稿において、民主主義と平和主義の根本原理について論議しようとは思いませんが、現憲法制度の下においては、「法の支配」が一層徹底するようになったということです。
この法というのは、国家が制定した法ではなく、自然法の意味です。
もし国家が制定した法が万能であるならば、それは国家万能であって、法万能ではありません。
国家法も一層上級の法である憲法に服するのです。そしてその憲法も自然法に反することができず、もし反する場合には排除されることになるのです。

従って、憲法は改正できるかどうかというような一般的な質問には概括的には肯定も否定もできないことになります。
自然法的原理は改正が不可能であり、実定法的性質の規定は改正が可能であるというほかないのです。

自然法は憲法の基礎として存在する法理念ですが、法実証主義の立場においては、国家が究極的審級であり、その存在理由は単に事実として存在することとなってしまうです。
つまり自己は自己の存在を正当づけることはできないのです。
国家が何故に存在しなければならないかという理由は、国家以上の審級即ち自然法に求められなければならないのです。

民主主義において目的とされるところは、憲法によれば、国民が国政の福利を享受することです。
しかしこのことだけならば、歴史上成功したところの専制国家においても見出されるのです。
全体主義諸国家は、表面上の制度がどうなっていようとも、民主国家ではないのです。
これらの国家においては、一党の独裁であり、個人の政治的諸自由、言論、結社その他の表現の自由は極端に制限されていますし、国民は福利を享受することがあっても概ね物質的生活の方面に限局されることになるのです。

全体主義諸国家においては、国家目的というのは、こうあるべき国家目的、その理念ではなくて、現実の国家目的が支配的であり、万能なのです。そこにはこれを批判する一層上の審級は存在しないのです。民主国家における独立の裁判所も存在せず、裁判所は政治目的に奉仕しなければならないのです。
全体主義国家においては、現実の国家権力が最高であり、この種の国家は法実証主義の極端な表現形態と言わなければならないのです。

広く民主主義といっても、その中には国民による政治だけにとどまって、国民のための福祉にはさっぱり貢献しないものもあります。
民主政治が衆愚政治に堕しやすいことは、ギリシャの昔から哲人達によって認められてきたところなのです。
民衆の声は往々にして神の声ではなく、狼の声であったのです。
多数決はそれ自体を正当化するならば、法実証主義の誤りに陥ることになるのです。
多数決は一層上に位置する審級即ち自然法に適合する場合において始めて正当化されるのです。
国政が国民の福祉のために行われなければならないならば、何が福祉であるかの判断は1人または少数者の判断にゆだねるよりも、国民自身の決定にまつのが、比較的安全であり、結果において正当なことが、人類の長年の経験において立証されているところです。
要するに、国民各個人が自然法の理念の示すところに従って判断をすることを前提として、多数決の結論が自然法に反しない場合において始めて正当化されうるのです。


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