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Posted by 瀬那みき on

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最高法規

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

最近、憲法改正論議がなされていますので、今日は憲法が最高法規であるゆえんについて考えてみることにします。

憲法の最高法規性は、他の実定法に対する関係において、実定法の一種である憲法の上に、その背後に、高次的な原理が存在することを示すものであることは、以前にも述べたことです。

国民は主権者として最高の権威を持っていますが、それは形式的意味においてであって、実質的には国民は真の意味の最高規範によって制限されているのであって、それは社会生活を支配する真理自体であると解されるのです。

憲法改正論議がもし、このような基礎付けを持っていなければ、それは単なる空中楼閣に過ぎないと言わなければなりません。
この視点で現実の状態を見てみますと、一般に今日、真理問題に対して否定的であるか、懐疑的です。

傾向の1つとしては、個人の自由意思を否定し、それを社会的環境の又は個人の外にある歴史的法則の流れのままに押し流される頼りない存在にしてしまうのです。

権威は個人自身に存在せず、個人以外にあり、それは真理ではなく、外部的力に存在することになるのです。その外部的力とは、ジャーナリズムの動きや一部少数者の独裁的支配であり得るのです。

民主主義は個人の自由と人格の尊厳を保障するものですが、このような状態において、保障されるべき自由と人格とはどこに見出されるのでしょうか。

他方、これとは正反対の理想主義者、自己中心主義者は、外部的権威に依存することを鋭く批判することにおいて正当です。
彼らは自由や人格の権威を極端なまでに主張し、恐ろしく自信が強く、自分が考えたり、体験したりしたこと以外のものを認めようとしません。

この立場からは、ソフィストのプロタゴラスの有名な言葉である「人が万物の尺度」を想起させます。すなわち自己が絶対の権威者となるのです。
では「自己」とは一体何でしょうか。

その認識や体験において不断に向上し、又は退歩し、その良心や真面目さにおいて常に鋭くなり、又は麻痺し、情熱や信仰において絶えず変化動揺し、利害関係や感情によって判断が影響され易い、頼りない人間です。

人間は考える葦である(パスカル)かもしれません。
確かに「考える」でしょうが、「葦」のようにかよわい人間です。

それが精神界におけるローマ教皇の地位にあることを宣言するのです。それが何千年間蓄積された人類文化の宝庫である歴史伝統に対し、二千年来周到に擁護され発展させられた教会の遺産に対して無鉄砲に挑戦するかのようです。

彼らも真理とか神とかの客観的実在を否定はしないでしょう。
しかし、事実上は自己が絶対の権威者になっているのです。
真理や神について論ずる前に、私たちはソクラテスに従って自らを知らなければならないのです。

現代の知識人の多くは、あまりに社会学的か、主観主義的です。
彼らは承認すべきでない外部的権威に盲従するか、又は正しい外部的権威を否定するのです。
彼らは客観的普遍的な真理を認めませんから、率直に「然り」又は「否」とは言い得ないのです。

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