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はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

正月休みに読んだ本パート2

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

今日は、紀元前63年ローマ共和制に起こった「カティリーナの陰謀事件」におけるカエサルの弁論を紹介します。
カエサルとは「サイは投げられた」と言ってルビコン川を通過したとして知られる、あのカエサルですね。

元老院議員カティリーナは執政官選出選挙に立候補しましたが数々の邪魔を受け失敗し、多額の借金と、人望のなさと持ち前の生真面目さとで絶望のあまり過激化し、クーデターを企てます。

後世の私たちに遺されているカエサルの発言の中で、この事件での弁論が最初のものになりますが、この中に、カエサルのその後のすべての萌芽があると言われています。

一見の価値がありますので、ほぼ全文をここに引用します。

「元老院議員諸君、諸君にかぎらずすべての人間にとっても、疑わしいことに決定を迫られた際、憎悪や友情や怒りや慈悲はひとまず忘れて対するのが正当な対し方であると思う。ベールにおおわれている真実を見極めるのは、容易なことではない。とくにそれが、一時期なりとも人々に満足を与え、共同体に利すると思われた場合はことにむずかしい。理性に重きを置けば、頭脳が主人になる。だが、感情が支配するようになれば、決定を下すのは感性で、理性の立ち入るすきはなくなる。

わたしは諸君に、歴史を思い起こされることを願う。多くの王も多くの民も、怒りか慈悲に駆られた揚句滅亡した。それよりもわたしが、喜びと誇りをもって思い起こすのは、われわれの祖先たちの所行である。われらが祖先は、感情に流されることなく、公正であるか否かによって諸事に対してきた。

・・・省略・・・

それでだが議員諸君、現在のわれわれにも、祖先に恥じないで済む対し方が求められている。レントゥルス以下の者たちの馬鹿げた行為に対処するかも、憎悪でなく、われわれのもつ名への誇りによって成されんことを望む。問題は、行為に妥当な罰は何か、ということだ。とはいえ、彼らの罪の深さはあらゆる想像をこえるものである以上、わたしは、このような場合こそ、既存の法の範囲内で処理さるべきであると思う。

わたしの前に発言した諸兄は、慎重に言葉を選びながらも、われらが共和国が直面している危険を説き明かしてくれた。

・・・省略・・・

とはいえ、これらの弁論の真に目的とするところは何なのか。陰謀をより憎悪させるためか。実際には何もしていない者に対して、彼らがすると予想された事態への、恐怖をあおるためか。
それは、違うだろう。もしもそうなら、人間は自らの言行に恥じ入るしかなくなるのだから。
しかし、元老院議員諸君、すべての人間は平等に、自らの言行の自由を謳歌できるわけではない。社会の下層に生きる者ならば、怒りに駆られて行動したとしても許されるだろう。だが、社会の上層に生きる人ならば、自らの行動に弁解は許されない。ゆえに、上にいけばいくほど、行動の自由は制限されることになる。つまり、親切にしすぎてもいけないし、憎んでもいけないし、何よりも絶対に憎悪に眼がくらんではいけない。普通の人にとっての怒りっぽさは、権力者にとっては傲慢になり残虐になるのである。

議員諸君、わたし自身は次のように考える。あらゆる刑罰は、その人の犯した罪に比べて低目に抑えられるべきであると。しかし、多くの場合、これに気づくのは後になってからだ。人々は刑罰について論議するときは、罪とされることの本質を忘れ、刑罰そのものが重いか軽いかしか考えなくなる。

・・・省略・・・

刑罰につての討議だが、わたしの考えるところでは、涙と不幸の中での死は、罰であるよりも救いであると言いたい。人間は、生きている間は死すべき運命をもつ者の味わうあらゆる悲惨を経験するが、死ねば、喜びもないかわりに苦もなくなる。

シラヌス(次期執政官でカエサルの前に討論した人)、あなたはなぜ、はじめに鞭打ちの刑に処すと提案しなかったのか。ポルキウス法が、ローマ市民にはそれを禁じているからか。それならば他の法では、ローマ市民権所有者に、もしもその人が追放を選ぶなら、死刑に処してはならないとも決めているではないか。そうではないとなると、鞭打ちの刑は、死刑よりも重い刑と思ってか。
いかなる処罰が、大罪を犯した者に対して、より残酷でより重いのか。反対に、より軽いのか。そして、シラヌス、あなたのそれについての判断は、ローマの国法に照らして、妥当であると言える理由はどこにあるのか。

とはいえ、シラヌス、あなたは言うだろう。この裁決は、国家への裏切者に対するものであることは確かだと。
だが、民衆というものは常に、誰かに、機会に、時代に、運命に翻弄されるものである。そして、その結果がどう出ようと、彼らはそれに値する存在でしかない。しかし、議員諸君、あなた方はそうではない。それゆえに今、例をつくれば、それが以後、どのような影響を及ぼすかも考慮しなくてはならない。

どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によったものであった。だが、権力が、未熟で公正心に欠く人の手中に帰した場合には、良き動機も悪い結果につながるようになる。はじめのうちは罪あること明らかな人を処刑していたのが、段々と罪なき人まで犠牲者にするようになってくる。

・・・省略・・・

大都市には、多くの異なる性格の人が住んでいる。別の機会に、別の執政官が、偽りの陰謀でも真実と思いこみ、手にする権力を乱用したらどうなるのか。今回が先例となれば、先例があるからと言って執政官が、そして「元老院最終勧告」(非常事態宣言で、執政官には国家秩序維持のため、ローマ市民でも裁判権、控訴権なしで処刑する権限が与えられている)が剣を抜き放った場合、誰が限界を気付かせ、誰が暴走を止めるのか。

・・・省略・・・

共和国創立当初は、ギリシア人のやり方を踏襲して鞭打ち刑を多用し、死刑の大判振る舞いをした。しかし、国家が強大になるにつれて市民たちの発言力も増し、また、このやり方が無実の者にまで波及する危険性を考慮した結果、「ポルキウス法」が成立し、罪人といえども自主亡命の道が開かれることになったのである。

議員諸君、私はこの考え方にこそ、緊急措置を採用することへの反対の論拠を置きたい。われらが祖先がもっていた知恵と徳によって、小国家だったローマも現在の大帝国にまで成長したのだ。彼らに比べて今日のわれわれが手中にしているのは強大なる権力であり、それを使うにはより一層の思慮が求められても当然である。

そこで結論だが、後々の影響を心配して、罪人を釈放するか。とんでもない、それではカティリーナとその一味を増長させるだけになる。ゆえに、以下が私の提案である。5人の資産を没収し、彼らを一人ずつ別々の地方都市に預け、監禁してもらう。そして、以後彼らには元老院でも市民集会でも発言を許さない。もしもこれらのことに違反すれば、そのものは今度こそ国家の敵として糾弾され、それにふさわしい刑に処される」

執政官であったキケロは熱弁を奮ってカティリーナ一味を断罪していました(現代でもヨーロッパの高校生なら誰でも知っている「カティリーナ弾劾」として)。
キケロは2000年後の今日においても弁護士の父とされる、ローマ最高の弁護士です。
このカエサルの演説で、即、死刑で固まっていた元老院の空気は動揺します。まず、シラヌスが前言を撤回、キケロの動揺は、端目にも明らかでした。

しかし、これを見た小カトー(長演説で議事妨害をすることで有名)が反論をし、最終弁論はキケロの役目でした。
ローマ市民は控訴権なく死刑にはできないとした法に対しても、反ローマにたった者でさえローマ市民と認めねばならないのか、との際どい論法で法の人キケロは切り抜けたのです。

元老院会議は、圧倒的多数を得て、死刑を決定しました。
キケロには「元老院最終勧告」を実施する権限が確認されたことになります。
凱旋将軍のように人々の歓呼を浴びて議場を出たキケロや小カトーでしたが、カエサルは、待ち受けていた人々から袋だたきにされ、危うく殴り殺しにされるところでした。

この13年後の紀元前49年1月12日、50歳のカエサルがルビコン川を越えたとき、元老院派は悔しがったのです。
あのときに殺しておけばよかったと。

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