夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

スポンサーサイト

Posted by 瀬那みき on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

正月休みに読んだ本

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

今日は私が正月休みに読んだ本の中の1つの内容について皆さまと一緒に考えることにします。
それも捜索・押収等について根本から、憲法上保護された領域についての考察です。

我が国の憲法は、アメリカ合衆国憲法に倣って、33条から35条に「身体および財産、とりわけ住居の不可侵」を定めています。

国家が何らかの理由で個人の身体と財産に捜索・押収という形態で干渉する場合には、「正当理由」と「必要最小限の干渉にとどめる要件」を具備しなければならず、これらの要件を具備していることを、捜索・押収を行う機関とは独立した「司法官憲」によって、捜索・押収に先立って認定してもらう「令状要件」を手続上履践して充足しなければならない、と定められているのです。

このように、一定の相当に厳格な要件を具備しない限り、身体と住居の領域では、個人は国家によって干渉を受けないことになり、この領域は、「憲法上保護された領域」と呼ばれています。
ではなぜ憲法上特別に保護されるのでしょうか。

この領域は、公の、一般人、不特定多数人や国家によって開かれた空間ではなく、その立入禁止場所に国家が捜索・押収という形態で干渉し、立ち入るには、正当理由と立入り、干渉を必要の限度にすることが示され、その正当化事由が干渉に先立って備わっていると別の独立した中立の人々によって認定されていなければならないというものなのです。

このような領域への国家の不干渉を、憲法上、明示することは、官憲が、勝手気ままに、或いは自由裁量で個人の生活に干渉することが当たり前の他の国々とは違うのだという自負と誇りを示すものであるとの見解もある位です。

その意味で、身体、住居、書類、所持品は、個人に自由領域を保障する代表的なものです。
ところが、電信・電話の急速な普及により、この期待が、有線電話にも及ぶことが合理的だと認められることになります。
憲法21条2項が「通信の秘密の不可侵」を定め、電気通信事業法では、電話会社とその係員に会話内容を知ったときの守秘義務を定め、有線電気通信法は、会話内容の傍受目的の権限のない装置を有線電気通信設備に装着することを禁止しています。

ちなみに無線による会話の場合は、性能のよい受信機があれば、無線による受信は誰にでも可能となり、傍受した会話の内容の漏えいを禁止し、そのために刑罰等を定めておくことはよいとしても、受信機をもって、周波数を合わせることを万人に禁止するのは、無理というものです。
そこでは、無線の会話を受信機で傍受し、それが多くの人々に伝わるのは当然のこととしなければならないのです。
そこでは、「他の干渉を受けないという」期待は認められないのです。

このように憲法33条から35条にかけて定める「他から干渉を受けない期待」のある領域では、個人は自分の思うままに自己を表現したり、他人と交渉したり、自分の信じる絶対神と交流したりすることが保障されているということになります。

人はややもすると、他人の不幸を楽しんだり、他人の秘密を嗅ぎつけたりして、自分勝手な満足に耽ったりするものですが、これが高じますと、疑心暗鬼の人が他人の一切の立居振舞を監視することになり、心理治療を受けたり、精神治療を必要とする状態が生じることになります。個人が精神的に病んでいる状態と同様の姿に国家や社会が陥れば、その国家や社会も病んでいるとみることができるのです。

家の中に立ち入って犯人を探すには、その家に居住している者の完全な同意がいるか、捜索や逮捕をなしうる実体要件が審査され、それを認めた裁判官の発した令状を具備していなければなりません。

ですが、手配中の犯罪とかかわりがあるような不審事由を伴った歩行者には、その自由を若干制限して、職務質問をしても、世間は不当とは思いません。また、緊急配備中に、一定の手配要件の揃った自動車が走行する場合には、手信号で、又は道路検問して、停車させることが警察官には許されていると世間は考えているのです。つまり、犯罪の捜査や予防、道路の安全のために、一定の合理的な理由があれば、自動車走行を停止させられることがあることを世間は知っているのです。

これらの例から整理して、「期待」を分類し、それに対応して憲法がどのような領域と状態を保護しようとしているのか考えてみましょう。

家屋や有線電話での会話には、他人の干渉を受けないとの「客観的」期待があります。
街頭での走行や公道での自動車走行には「客観的な期待」はないものの、人々の目に触れる限度で、また何らかの理由があるときは、停められたりすることがある、という限定された他人の監視を受けない期待を「主観的」期待と呼ぶことができます。
そして、最後にそれらの期待を全く欠く状態、つまり、街頭での犯行のような場合には、警備に当たった機動隊員に投石したり、スーパーマーケットのガラス戸を壊して立ち入って、品物を略奪する犯行者には、全く他人の干渉を受けない期待はないのです。その活動を理由に逮捕されたり、写真に撮られても何の文句も言えないことになるのです。

客観的期待がある状態に警察等が干渉する場合には、令状要件が具備することが求められます。それに対して、主観的期待しかない状態では、「不審事由」が具備されることは求められますが、令状要件は不要とされます。そして、期待を全く欠く場合には、当然ながら、実体、手続双方の要件も全く不要となるのです。そして、これらの干渉には、捜索、監視・尾行、押収・逮捕、写真撮影等といった様々の活動が含まれることを知らなければならないのです。

家屋を捜索したり、人の身柄を停めたり、逮捕したりする場合に、期待の程度や「干渉」の程度に応じて、ある場合には相当理由の程度の実体要件、令状要件が具備していることが求められ、別の場合には「不審事由」の程度の要件だけがあれば足り、令状要件が不要となるのはなぜなのでしょうか。

それは他人の自由領域への干渉は、正義の要件が具備していることが示されなければならず、正義の要件が充足しているのに、自由の領域への不干渉を国家に許すのなら、そこには無政府状態が発生するのです。
この自由と正義の緊張関係、相関関係を示す典型例が、「憲法上の保護された領域」とそこへの一定の理由のある場合の干渉、つまり、捜索・押収、逮捕・勾留なのです。

このように考えれば、個人の自由に種々の理由で干渉する場合に、許される干渉の程度や干渉に要する正当理由の内容について、単に技術的ではない原理的な理解をすることができるのです。
司法官憲を含む中立機関による捜査が原則として要件とされるのは、国家政府による自由への干渉が正義に適っていることを外部的に保障し、実は正義に反する政府活動を正義に適っているとごまかしたり、繕ったりしてしまう危険を回避するためなのです。
正義の名にかくれた自由の侵害は、個人の自己表現を保障する自由社会の基本的な考え方に反するために、手続要件が要求されるのです。
自由の侵害の恐れの少ないか、それの全くない場合では、令状要件は要求されないのです。

このように、捜索・押収、逮捕・勾留、電話の傍受、写真撮影等々技術的な問題の背景には、自由と正義の原理が存在することを十分に知ることができるのです。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://mikitinaiustitia.blog.fc2.com/tb.php/34-9a281d2b
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。