夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

ある聖職者について

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

ここ数日間は、まるでカリフォルニアのような青い空と、夏のようなカラッとした暑さが続いていました。
日本らしい秋が待ち遠しいのですが、トンボを最近になって見かけました。
空中で止まったり、いきなり前に進んで再び止まったりと、自由自在な飛行を楽しんでいる様子を見ると、もうすでに秋なのですね。


さて、去る8月31日カトリック教会枢機卿、カルロ・マリア・マルティーニ師がお亡くなりになりました。

日本でも報道されましたので、その内容を一部抜粋しますと、

『トリノ生まれ。1980~2002年にミラノ大司教を務め、1983年に枢機卿になった。
教会穏健派の重鎮で、2005年の前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世死去後、後継候補に名を連ねた。
教会外、他宗教の人たちとの対話に積極的な人として知られる。』

とありましたが、これだけではマルティーニ師は一体どんな人だったのか分かりませんね。
なんか、カトリック教会の偉いお坊さんだったんでしょ、という反応では、あまりにも淋しい・・・、ということで、今日はマルティーニ師について私なりに補足をさせていただきます。

手もとに、ある米国のジャーナリストがマルティーニ枢機卿にTVインタビューをした本があります。
枢機卿とジャーナリストとの面会はなかなか実現しないようですが、このジャーナリストは念願のターゲットをインタビューの場に引っぱり出すことに見事成功したようです。
その質問の的確さからも、並々ならぬマルティーニ師への尊敬の念と関心の高さが伺われます。

ミラノ大司教(世界で最大の司教区)での職務に忙殺されながら、修道者として、聖書研究者としての生活も失うことなく、信仰、良心、知性を通して世界を理解しようとしてやまない人。
師はどのようにして神を見出されたのだろうかという関心のもと、質問は投げかけられています。

私が師の本をはじめて手にしたのは随分前ですが、今でも愛読書の1冊として時々読み返し、その度に新しい発見や触発を受けております。

WEBサイト「瀬那の部屋」においてお薦めの本として紹介しようかどうしようかと悩んだ1冊でもありました。
この本はカトリック独特の専門用語もちらほらあることから、一般の方からは敬遠されてしまうではという懸念から、平易で分かりやすい物語の語り口で真理へと自然に導いていく、アントニー・デ・メロ司祭の本をお薦めとして選びました。

しかし、今日までこのブログを読んでくださっている方には、そのような心配は無用でしょうということから、また、師の逝去の報道を機会に、ぜひ今回はマルティーニ師について紹介させていただきたいと思った次第です。

最後に私から僭越ではありますが、一言させていただきます。

マルティーニ師のような方が教会から、そしてこの世から去っていかれたことは、これから先、埋めることのできない大きなマイナスであります。
師の残された遺志が、引き続き、この世において実りをもたらしますよう、どうかお導きください。

本の中身の一部やりとりを抜粋して掲載させていただきます。


Qキリスト教信仰とは、1つの精神的冒険だとされます。信仰とは人格的な決断、深い内面に根ざした確信なのだとご理解なさったのはいつでしたか。

Aキリスト教信仰を精神的冒険と定義することができます。
 それは、相手が自分のあまりよく知らない人であっても信頼し、受け入れる態度に似ています。人を信頼し愛するならばあえて冒さなければならないリスクです。私がこのことを意識するようになったのは、10歳位であったと思います。
 神がわたしと人格的な交わりを本当に結ぼうと望まれるのだ。神をひとりの友とよぶことができるのだ。そしてそこには真実の友情があるのだと気づき始めたのがそのころだったからです。


Q信仰を失うとか、疑うとかの経験をなさったことはありますか。もしもあるとすれば、どのようにして取り戻されたのでしょうか。

A信仰とは、岩登りや険しい登山のようなものです。めまいがしたり、落ちるのではないかと思ったり、途方に暮れたりするものです。突然霧に巻かれたり、嵐にあったりもします。自分がどの道を進んでいるのか、よくわからなくなってしまうような重苦しい闇の日々もあります
 それでも一挙に解決することがあります。
 大事なのは、動揺しないこと、岩にしっかりとした足場を定めること、まだ何とかたどれる細道からそれないことです。
 といいますのは、信仰の深みというものは、他者を信頼するということにあるからです。信仰は恵みとして与えられるものです。そして恵みであるということを、人は何より も非常な苦しみの時期に経験するものです。つまり神は人をやみに追い込み、そして光を再発見させるようにはからうからです。


Q信仰を得るにはどうしたらよいでしょうか。信仰をもたないで生活し、やがて神を見出すというようなことがあり得るでしょうか。

A神を見出すのはいつでも可能です。なぜなら人を探し求めているのは神の方だからです。しかも神こそが(こう表現するのが許されるなら)わたしたちなしには生きられないからです。神が探し求めているのは人間の尊厳です。つまり人間の心の深みにある美しさです。神自身がそれを創造なさって、親しく交わろうと望んでいるのです。神は人間の友となることを望んでいるのですから、だれでも神を見出すことができますし、この世の生涯を閉じる最後の瞬間までもそうです。


Q人生の本当の意味は何でしょうか。

A人の命は神から来て、神へと帰ります。神が命そのものなのです。とにかく1人ひとり、たとえ神に希望を抱かない人でさえも、こう自分に問いかけてみることは大切です。いま、人生のこの瞬間に、自分が生きていることの本当の意味は何だろうか、と。
 この問いに答えるためにだれでも、福音書や詩編の書から助けが得られるでしょう。
 それは意外なほどです。


      

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