夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

時間とは

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

まだ暑いですね。

8月中旬から領土問題について、各界の先生方の非常に明瞭なご説明、ご意見を情報媒体を通して興味を持ちながら伺っております。
多様な意見発信が保障されている民主主義の恩恵に感謝すると同時に、日が経つにつれ、新しい歴史的事実なども出て来、この問題の解決を一層困難にしているようにも見受けられました。
今後とも静観していきたいと思います。

今日はその領土から少し離れてみましょう。

過日、手帳の整理をしていましたら、随分前に使っていたカトリック手帖が出てきました。
懐かしく中を見ていると、手帳の各ページに印刷されている聖句の数々が目に入り、その中で特に目を引いた聖句を引用します。

「神の国はあなたがたの間にある」 ルカによる福音 17章21節

聖書の福音を読んで惹きつけられる箇所は、その時々の心境によって異なって参ります。予め選んでから読む場合もあれば、何も考えずにいきなりパッと開いた箇所が、今の私に向けられたみ言葉だとして読んだりすることもあります。

秋になって、枯れ葉の季節を迎え、今年もいよいよ後半になりつつあります。

人間こうして毎日、日々を過ごしている間に月日は過ぎ去り、気が付けばあっという間に年を取り、老いから逃れる術はなく、ただ死を待つばかりなのでしょうか。

そんなことを考えるのは何もある一定の年齢層の人たちばかりではなく、人それぞれに生き方、人生観がありますから、つい好んで向き合ってしまいがちな人は私だけではないはずです。

天国はこの世から既に存在する、あなた方を通して、と暗示するかのような聖句です。

話はそれますが、昔参加したある黙想会(修道会(イエズス会、マリア会など他にも沢山あります)が主催して、カトリック信者の若者を募集し、聖書について静かにお話をしたり、お祈りをしたり、黙想をしたりする泊りがけの会です。夏休みや冬休みによく開催されます)で、時間には2種類あるというお話を伺ったことがあります。

へっ?時間って2つあるの?と初めて聞いたときは驚きました。

時間とはすなわち、時計の針が刻むクロノスと、その他に神様がくださる時間であるカイロスというものでした。

クロノスの説明は特に必要ないでしょう。

時間の測定に使われた初めての時計は、日時計でした。
日時計は、曇りや夜など太陽が見えていない時には使えませんし、正確な時刻を計るには、かなりややこしい条件を満たさなければなりません。
詳しい計測の方法にご興味のある方にはお調べになって頂くとしても、突き詰めればクロノスの読み取りもかなり複雑なものです。

問題なのは、カイロスです。
神様から受けるものですから、このような未知の時間帯に至るまでに、文字通り人間に出来ることと言えば、祈り、観想し、ひたすら待つことのみです。

随分前のことですが、自宅の部屋で1人で祈っていた時のことでした。
この時期は黙想会にも頻繁に参加し、祈りの深みも増していたのでしょうか、それなりに充実した祈りの時間を過ごしておりました。

その日は特に祈りが深まったようで、体験したことない安らかな状況に至りました。

いつまでもこうして祈っていたいな、もしかしたら私は間違って眠ってしまったのかもしれないと、確認する意味で自分の指を眼を閉じたまま少し動かしてみました。

すると普段無意識に指を動かすのとは全く違った、骨の髄から指を動かしている研ぎ澄まされた感覚が走り、同じ自分の指なのにどうしていつもとこんなに違うのだろうかと驚きました。
この状況下に少しでも長くいたいと、いつもより時間をかけ、必死に祈りを継続し、2時間位経過したと思われる時点で目を開けました。

時計を見ると、祈りを始めてから30分しか経過していませんでした。
この時計は電池が消耗して遅れているのだと、他の時計も見て確認したのですが、やはり30分しか経っていませんでした。

この不思議な体験は、私にとって忘れられない出来事の1つです。

あるテニスプレーヤーは試合中、どんなボールが相手コートから来ても、自分の思い通りの場所にボールを打ち返せる状態になった体験を不思議と語っていました。

このようなことからカイロスは好機とか機会(チャンス)とかを意味するとされています。が、これだけではあまりにも抽象的にすぎ、ピンときませんね。

具体的に考えてみれば、振り返って皆さまの誰もが、似たような体験をなさったことがあるかと思います。

カイロスと神の国との関係を論証することはできませんが、神の国の時間がカイロスだとすれば、神の国即ち天国は、既に私達の手の届く距離にいつも存在しているといえるのです。


話は変わりますが、以前のブログでオリンピックの選手の方々の活躍を通して、感動と勇気を頂きました旨、書かせていただきました。
このように自分で書いていながら、多少の違和感は感じておりました。

最近になって、感動や、勇気は、もらったり、あげたりするものではなく、自分の中からわき上がる自発的なものではないか。
とのご指摘を拝見し、ごもっともですと申し上げる他ありません。

感動し、勇気が湧いてきましたと記載すべきだったと反省しております。


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