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Posted by 瀬那みき on

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残暑の日に

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

こんばんは。
瀬那みきです。

夏も終わりに近づいたせいか、蝉の鳴き声がうるさくて、まだパートナーが決まらないオス達が命がけで頑張って鳴いているのかなと思いました。
それは人の声もかき消し、耳がキーンとなるほどで、音源はどこなのかとあたりを見回すと、すぐそばの木に手の届く距離にとまっていました。
子どもなら喜んで手を伸ばし、捕まえるのかもしれませんが、そんな興味も元気もない私は、ああ、そこにいたのね、とだけ思い、通り過ぎてしまいました。


さて、今日は、靖国神社公式参拝問題について考えてみましょう。

昭和60年8月15日当時の内閣総理大臣が靖国神社に公式に参拝しました。
この行為が憲法の政教分離原則に反するのではないかが問題になり、今なお論争となっているところなのです。

従来までの政府の解釈では、「神社は宗教にあらず」という見解を固辞していました。
これは、神社という営造物を通して行われる礼拝は、宗教的なものではないという意味なのでしょう。

そこで宗教とは何なのか、ということになるのです。
しかし、何も宗教学的意味における宗教の定義をしようとしてかかる必要はなくて、私達が常識で宗教と考えるものは宗教と認めて差支えないのです。
人間以上の存在と私達との関係に関する事項は、みな宗教的のものと言わなければなりません。

今日、神社が宗教ではないとは誰も考えませんし、神社を崇敬するのは、有形的な建造物、設備を崇敬するのではなく、その設備の背後にある、超自然的の存在に対して向けられているものなのです。
崇敬は超自然的な存在に対するものであって、その対象が偉人の霊であっても、戦没者の御霊であっても、それは同胞の霊魂としてではなく、神に化したものとしてであることから、十分宗教的なものと言えるのです。

神社において、祭式に従って、神職が祝詞を上げるのは純然な宗教行為であって、これを宗教行為でないとするならば、甚だしい強弁であると言わざるを得ません。

神社に参詣する者の大多数の心持は、神社に対して単なる敬意を払う以上に、種々の祈願をなすものです。

私達は、神社の側からだけでなく、公衆の側の心持に立って考えて見なければならないでしょう。

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