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Posted by 瀬那みき on

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マルクスについて

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「宗教はアヘンである」とマルクスは言いました。
このもっとも端的なマルクスの教えについて一言させていただきたい。

彼の説く理想社会は、各人が能力に応じて働き、必要に応じて取るという社会です。
それは額面通りにとればまことに美しいものです。

しかし人間の本性はどうでしょうか。
各人が各人の能力を完全に尽くして働き、そして各人が必要なものを取るが必要以上取らないという、そういう人間が世界の多くを占めているならば、かりに社会機構が狂っていたとしても、すでにそこに遥かによき社会が現出しているはずです。

しかし原罪によって傷ついた人間の本性は最小限度働き、最大限度取りたいのです。
必要に応じて取るというけれども、人間の必要度というものはけっして固定的なものではなく、むしろ人間の欲望は、満たせば満たすほど増大して止まるところを知らないのです。
従って社会環境の変化が、人間性を一方的に、そのような必要に応じてのみ取り、能力を尽くして働くというような人間にまで高めるという楽観主義は、むしろ、アヘン的幻影ではないでしょうか。
社会制度が合理化されて、その制度が円満に回転するためには、まさに人間革命が必要であって、その人間革命は、社会改革以上に、もっと人間の本性に逆らう強い抵抗を予想するものであることを知らなければならないのです。

よくマルキストは空想的社会主義から科学的社会主義へといってセンチメンタルな社会主義から、客観的な土台をもつ具体的な方法を示した社会主義に移行すべきことを説いており、そしてそれは神話的ユートピア主義からマルクス的社会主義への前進をさしているのです。

しかし人間の現実面を捉える点において、キリスト教はどれほど反ユートピア的であり、現実的でしょうか、その一例をあげましょう。

イエス・キリストはその最後の晩餐において、自己の死の形見としてご聖体を残しました。その切々たる死の形見の制定を前にし、3年間寝食を共にして教育を受けた弟子たちはどのような反応を示したでしょうか。
ひとりは、主を売ってその代価がいくらになるか、その資本を回転すればどの程度利潤があがるかと、他の11人は、次の政権は自分がとるのだと、いわば党首争いに浮き身をやつしていたのです。

そして、そのような弟子の足を主イエス・キリストは洗い、今自分のなすことを汝らは理解できないであろうが、やがて理解するであろう、そのとき自分にならうように、と述べられたのです。
人間の本性のがめつさに触れた時、まさにその現実の故にこそ、人間性のいやしさのために自分の一生を捧げて奉仕しようという、そういう人間革命をこの地上に着々と実現しつつ、それに社会機構が相呼応することによってはじめて、この地上に愛と誠意の支配する社会ができるのです。

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