夢と希望を持ち続けて

はじめて人生の道のりを歩んでいる私たち1人1人に灯火がありますように

漁父の辞

Posted by 瀬那みき on   0 comments   0 trackback

本日は、屈原の楚辞の諸篇の中の「漁父」を詠みましょうね。

まず、簡単に屈原の時代背景を見てみましょう。

屈原(紀元前343年-紀元前277年)は、戦国時代に楚の懐王に仕えて、内政、外交に手腕を発揮しました。
楚、斉は秦の脅威にさらされていたので、屈原は楚、斉が同盟して秦に対抗する策を推進しました。他方、秦の保護下に入って安全を図る勢力も強く、国論は二分していました。(斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙という「戦国の七雄」と呼ばれた7つの国は高校の世界史でもやりましたよね)。

このとき、秦は楚を孤立させ、屈原を追放させ、楚斉同盟を破棄させ、楚は滅亡することになります。
懐王は屈原を再起用して態勢挽回を図りますが、秦は懐柔策に出、懐王を呼び寄せ、屈原は再び追放されることになります。屈原は、滅び行く祖国の前途を見るに忍びず、泪羅(べきら)の淵に入水自殺してしまいます。
屈原が死んで55年後、楚は秦に滅ぼされます。

屈原は優れた政治家であったばかりでなく、大詩人でもありました。
「楚辞」と呼ばれる詩は、後世に絶大な影響を与えました。


では、漁父の辞をお楽しみください。





戰國 (紀元前475年 - 紀元前221年)







楚辭




屈原既放 遊於江潭 行吟澤畔
顏色憔悴 形容枯槁 漁父見而問之曰
子非三閭大夫與 何故至於斯
屈原曰 舉世皆濁我獨清 眾人皆醉我獨醒 是以見放

漁父曰 聖人不凝滯於物 而能與世推移 
世人皆濁 何不淈其泥而揚其波
眾人皆醉 何不餔其糟而歠其釃
何故深思高舉 自令放為 

屈原曰 吾聞之 新沐者必彈冠 新浴者必振衣
安能以身之察察 受物之汶汶者乎
寧赴湘流 葬於江魚之腹中 
安能以皓皓之白 而蒙世俗之塵埃乎

漁父莞爾而笑 鼓枻而去 乃歌曰
滄浪之水清兮 可以濯吾纓
滄浪之水濁兮 可以濯吾足
遂去不復與言


屈原(くつげん)既に放たれて、江潭(こうたん)に游び、行(ゆくゆ)く沢畔(たくはん)に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁(ここう)せり。漁父(ぎょほ)見て之に問うて曰く「子は三閭大夫(さんりょたいふ)に非ずや。何の故に斯(ここ)に至れるか」と。
屈原曰く、「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔ひ、我独り醒めたり。是を以て放たれたり」と。


漁父曰く、「聖人は物に凝滞(ぎょうたい)せずして、能く世と推移す。世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈(にご)して、其の波を揚げざる。衆人皆酔はば、何ぞ其の糟を餔(くら)ひて、其の釃(しる)を歠(すす) らざる。何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たれしむるを為すや」と。


屈原曰く、「吾之を聞けり。『新たに沐(もく) する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ』と。安んぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶(もんもん)たる者をうけんや。寧ろ湘流に赴いて江魚の腹中に葬らるとも、安んぞ能く晧晧(こうこう) の白きを以てして世俗の塵埃を蒙らんや」と。


漁父莞爾(くわんじ)として笑ひ、枻(えい)を鼓して去る。乃ち歌つて曰く、滄浪(そうろう)の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。
滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯(あら)ふべしと。
遂に去つて、復た与に言はず。



屈原は追放されて湘江の淵岸に行って、その沢のほとりで歌を詠んでいた。顔は憔悴していて、体は痩せ衰えていた。老いた漁師が見て、その人に尋ねて言った。

「あなたは三閭大夫さまではありませんか。どうしてここにいらっしゃったのですか」

屈原は言った 「世の中がすべて濁っている中で、私独りが清らかである。皆さまが酔っている中で、私独り醒めている。そのせいで追放されました」

老漁師は言った 「聖人は物事にこだわらず、世間と共に移り変わるのです。世の人がみな濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、その濁った波を高くあげようとしないのですか。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすを食べて、薄い酒を飲もうとしないのですか。どうして深刻に思い悩み、お高くとまって、自ら追放されるようなことをなさるのですか。」

屈原は言った「私はこう聞きました。『髪を洗ったばかりの人は、必ず冠のよごれを払ってから被りなおし、入浴したばかりの人は、必ず衣服をふるって塵を落としてから着なおすものだ』。どうして私自身の潔白な身に、汚れたものとしての扱いをこうむることができましょうか。それならいっそのこと、湘江に身を投げて、川魚のえさとなって腹の中へ葬られても、どうしてあまりにも潔白の身で世俗の塵を被ることができましょうか。」

老いた漁師は明らかに話を変えもう結構とばかりに満足そうな笑顔をつくり、にっこり舟の縁を櫂で叩きつつ漕ぎ去っていったが、そのときこう歌った。

「滄浪の水が澄んでいるのなら、身分高い人が冠の紐を洗えばいい。滄浪の水が濁っているのなら、私の足を洗ってしまおう」

とうとうそのまま去ってしまい、二度と屈原と語り合うことがなかった。



屈原の「孤り高し」として国を救い世を治めていこうとする儒家的な考え方は、「知恵の光を和らげ隠して俗世間の中に交われ」という漁夫の道家的な考え方と対立します。

2人が別れる際、漁父は「莞爾として笑う」とありますが、どのような意味があるのでしょうか。

漁父は、よく言えば一本気、悪く言えば頑なな屈原の言葉に「私の意見とは異なるが、大変尊いからがんばりなさい」と思ったとも「あなたの意見は随分尊いが子どもっぽい。しかし、まあがんばりなさい」と思ったとも解釈されます。



スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://mikitinaiustitia.blog.fc2.com/tb.php/102-28534edc